バイオセキュリティとデュアルユース研究:主要国の規制・倫理と共同研究の留意点
生命科学分野の急速な発展は、人類に多大な恩恵をもたらす一方で、意図しない、あるいは悪意のある利用のリスクも同時に高めています。特に、通常の平和的な研究活動の成果が、軍事的応用やテロ活動など、社会に害を及ぼす可能性のある目的にも利用され得る研究は「デュアルユース研究(Dual Use Research)」と呼ばれ、国際的にその適切な管理と倫理的な考察が求められています。また、病原体や毒素などの危険な生物学的資材が不正に利用されることを防ぐための取り組みは「バイオセキュリティ(Biosecurity)」と呼ばれ、デュアルユース研究の管理と密接に関連しています。
国際共同研究が日常的となる中で、各国がこれらのリスクに対してどのような規制や倫理ガイドラインを設けているかを理解することは、研究者にとって非常に重要です。知らず知らずのうちに他国の規制に違反したり、国際社会が懸念する研究リスクに関与したりする可能性を避けるためです。
この記事では、主要国におけるバイオセキュリティおよびデュアルユース研究に関する規制・倫理ガイドラインの基本的な考え方を比較し、国際共同研究を進める上で研究者が特に留意すべき点について解説いたします。
バイオセキュリティとデュアルユース研究の基本的な考え方
バイオセキュリティとは、危険な生物学的資材(病原体、毒素など)へのアクセスを物理的、人的、手続き的に管理し、誤用、盗難、紛失、意図しない放出、あるいは悪意のある利用を防ぐための措置全般を指します。具体的には、研究室の入退室管理、危険資材の保管方法、研究者の信頼性確認などが含まれます。
一方、デュアルユース研究(DUR)は、「正当な目的のための科学的知見や技術の探求から生まれたが、兵器開発など有害な目的にも誤用されうる可能性を秘めている知見や技術を生み出す研究」と定義されます。全ての科学研究がデュアルユースの側面を持つ可能性を否定できませんが、特に生命科学分野では、病原体の病原性強化、感染力増加、治療抵抗性獲得に関する研究などが代表的なデュアルユース研究として議論されることが多いです。
デュアルユース研究に関する問題は、研究そのものを禁止することではなく、その潜在的なリスクを認識し、研究実施の是非、リスク軽減策、研究成果の公表方法などを適切に評価・管理することにあります。
主要国における規制・倫理ガイドラインの比較
バイオセキュリティおよびデュアルユース研究の管理に対するアプローチは、国や地域によって異なります。ここでは、主要な国・地域の考え方の一端をご紹介します。
米国
米国はデュアルユース研究、特に生命科学におけるデュアルユース研究(DURLS: Dual Use Research of Concern in the Life Sciences)に関する議論と政策策定を比較的早期から行ってきた国の一つです。
- 規制・ガイドライン: 米国政府は、特定の高病原性病原体や毒素に関する保有・移送・研究活動を規制する連邦規則(例: Select Agent Program)を定めています。また、連邦政府の資金を受けて行われる特定のDURLSに対しては、政府機関や研究機関によるレビュー、リスク軽減計画の策定を義務付けるポリシー(例: U.S. Government Policy for Oversight of Life Sciences Dual Use Research of Concern)を導入しています。
- 特徴: 特定のリストアップされた病原体や研究成果(例: 病原性の増強、ワクチンや治療法への抵抗性獲得など)に焦点を当てた「リスト規制」的な側面と、リスク評価に基づいた管理を組み合わせている点が特徴です。
欧州連合(EU)加盟国
EU全体としての統一的なデュアルユース研究に関する包括的な法規制は現時点では存在しませんが、加盟各国が独自の規制やガイドライン、あるいは輸出管理規則の中で対応しています。EUレベルでは、生物・化学兵器の拡散防止の観点から、特定の物質や技術の輸出管理に関する規則(デュアルユース輸出管理規則)が定められており、これが研究活動にも間接的な影響を与える場合があります。
- 規制・ガイドライン: 各国独自の研究倫理審査の枠組みや、特定の危険な生物学的資材に関する国内規制が存在します。輸出管理規則においては、特定の病原体や関連機器がリストアップされており、域外への持ち出しには許可が必要です。
- 特徴: 米国のような特定の研究成果に焦点を当てたDURLSに特化した包括的な規制よりも、広範なバイオセキュリティ対策や輸出管理、研究倫理審査の中でデュアルユースの懸念に対応している側面が強いと言えます。ただし、国によっては独自の倫理ガイドラインや研究資金提供機関のポリシーでデュアルユースに関する評価が求められる場合があります。
日本
日本においても、感染症法に基づく病原体の管理や、研究活動におけるバイオセキュリティ対策は重要視されています。デュアルユース研究については、特定の法律で直接的に包括的に規制されているわけではありませんが、研究資金配分機関の規定や研究機関ごとの倫理規程の中で、研究計画の妥当性や倫理的側面が審査される際に、デュアルユースの観点も考慮されることが期待されます。
- 規制・ガイドライン: 感染症法に基づく病原体の管理区分と取り扱いに関する規制があります。また、日本学術会議などから、生命科学研究におけるデュアルユース問題に関する提言が出されています。各研究機関は独自の倫理委員会を設置し、研究計画の倫理的・科学的妥当性を審査しており、この中でデュアルユースのリスク評価が行われる場合があります。
- 特徴: 法令による直接的な包括規制というよりは、研究機関や資金配分機関の倫理審査、研究者コミュニティの自律的な取り組みを通じてデュアルユース問題に対応していく側面が強いと言えます。
国際共同研究における留意点
国際共同研究でバイオセキュリティやデュアルユース研究に関わる可能性がある場合、以下の点に特に留意が必要です。
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相手国の規制・ガイドラインの確認: 共同研究相手がいる国がどのようなバイオセキュリティ規制やデュアルユース研究に関するガイドラインを有しているかを必ず確認してください。自国の基準を満たしていても、相手国の基準を満たさない場合があります。特に、特定の病原体の取り扱い、遺伝子改変生物の作出、特定の技術(例:CRISPRなど)の利用に関する規制は国によって大きく異なる可能性があります。
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研究計画におけるリスク評価と共有: 共同研究計画の段階で、その研究がデュアルユースの懸念を生じさせる可能性があるかを共同研究者と十分に議論し、リスク評価を行ってください。どのようなリスクが考えられ、それをどのように軽減するかを検討し、文書化することが推奨されます。研究機関のバイオセキュリティ責任者や倫理委員会に相談することも重要です。
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生物学的資材の国際移送: 病原体、細胞株、核酸などの生物学的資材を国際間でやり取りする場合、両国の輸出入規制、感染症法などの国内法、および研究機関間の合意(MTA: Material Transfer Agreementなど)に基づく手続きが必須です。許可なく移送することは、法規制違反だけでなく、バイオセキュリティ上の重大な問題となります。
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研究成果の公表に関する検討: デュアルユースの懸念がある研究成果を論文などで発表する際には、その情報が悪用されるリスクについても考慮が必要です。リスクの高い情報は、詳細な実験手法の記述を限定するなど、情報開示の範囲について編集者や研究機関と慎重に協議することが求められる場合があります。学術の自由とのバランスが難しい課題ですが、研究者コミュニティ全体で議論されています。
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コミュニケーションと信頼関係の構築: 共同研究者との間に、バイオセキュリティやデュアルユース研究に関する懸念について率直に話し合える信頼関係を築くことが非常に重要です。倫理的・規制的な問題は、研究の進行に大きな影響を与える可能性があるため、早期に情報共有し、共通の理解を深めることが円滑な国際共同研究につながります。
まとめ
生命科学分野におけるバイオセキュリティとデュアルユース研究への対応は、世界の安全保障と倫理的な責任に関わる重要な課題です。主要国では、特定の規制やガイドライン、あるいは研究機関の倫理審査を通じてこれらのリスク管理が行われていますが、そのアプローチには違いが見られます。
国際共同研究を行う若手研究者にとって、これらの違いを理解し、自身の研究が持つ潜在的なリスクを認識することは、円滑かつ倫理的に責任ある研究活動を行う上で不可欠です。研究計画の初期段階からバイオセキュリティとデュアルユースの観点を取り入れ、共同研究相手、研究機関、必要に応じて専門家と密にコミュニケーションを取りながら進めることが、国際社会からの信頼を得るためにも非常に重要となります。