生命科学分野の国際共同研究:倫理審査申請に必要な書類と手続きの国際比較
はじめに
国際共同研究は、現代の生命科学研究において不可欠な要素となっています。しかし、国境を越えた研究活動を進める上で避けて通れないのが、各国の規制や倫理ガイドラインへの適合です。特に、ヒトを対象とする研究やヒト由来の生体試料・データを利用する研究においては、厳格な倫理審査が求められます。
この倫理審査のプロセスは国や地域によって異なり、申請に必要な書類や手続きにも違いが見られます。こうした違いは、国際共同研究に初めて携わる若手研究者にとって、しばしば大きなハードルとなり得ます。本記事では、生命科学分野の国際共同研究における倫理審査に焦点を当て、主要国における申請書類と手続きの一般的な比較、そして国際共同研究ならではの留意点について解説いたします。本記事が、読者の皆様が円滑に国際共同研究を進めるための一助となれば幸いです。
研究倫理審査の基本的な考え方
倫理審査は、研究計画が倫理的に適切であるか、研究参加者の権利と安全が十分に保護されているかなどを独立した委員会(日本では倫理審査委員会、米国ではInstitutional Review Board; IRB、欧州ではEthics Review Committee; ERCなどと呼ばれます)が審査するプロセスです。その目的は、研究参加者や社会に対する倫理的な配慮を確保しつつ、科学的に意義のある研究を推進することにあります。
倫理審査の基本的な原則は、世界的に共通する倫理規範(例: ニュルンベルク綱領、ヘルシンキ宣言、ベルモント・レポートなど)に基づいています。これらの原則には、研究参加者の自発的な同意(インフォームド・コンセント)、研究の便益とリスクの評価(リスク・ベネフィットバランス)、研究参加者の公正な選定などが含まれます。しかし、これらの原則を具体的な規制や手続きに落とし込む方法は、各国の歴史的背景、法制度、文化によって異なってきます。
主要国における倫理審査申請:書類と手続きの比較
国際共同研究を行う際、研究代表者や共同研究者が所属する機関の倫理審査に加え、研究実施施設が所在する各国の倫理審査が必要となるのが一般的です。ここでは、日本、米国、欧州連合(EU)における倫理審査申請に関する一般的な情報と、国際共同研究において特に注目すべき点を比較します。
共通して求められる主要書類
多くの国で、倫理審査申請において共通して提出が求められる主要な書類があります。これらは、研究計画の全体像、倫理的配慮、および実施体制を評価するために不可欠です。
- 研究計画書(プロトコル): 研究の目的、意義、対象、方法、データ解析計画、予想されるリスクと便益、倫理的配慮などが詳細に記述された研究の設計図です。国際共同研究の場合、多施設・多国間で共通のプロトコルを使用することが一般的ですが、各国の規制要件に合わせてローカルな補足説明が必要になることがあります。
- 説明文書および同意書: 研究参加予定者に対して、研究の内容、目的、方法、期間、予想されるリスクと便益、プライバシー保護、参加の自由(同意撤回権含む)などを分かりやすく説明するための文書と、研究参加への同意の意思を示すための同意書です。各国の言語に正確に翻訳・ローカライズされている必要があります。文化的背景や識字率なども考慮し、理解しやすい形式で作成することが重要です。
- 研究者の履歴書: 研究責任者および主要な共同研究者の資格、経験を示す書類です。
- 利益相反申告書: 研究者の経済的あるいはその他の個人的な利益と、研究の倫理的実施や科学的判断との間に潜在的な相反関係がないことを確認するための申告書です。
- 被験者募集に関する資料: ポスター、広告、説明会資料など、研究参加者を募集するために使用する全ての資料です。
- 安全性に関する情報: 使用する薬剤、医療機器、あるいは遺伝子操作技術などに関する安全性の情報です。
各国独自の要求事項や手続きの違い
上記共通書類に加え、各国独自の要求事項や手続きが存在します。
- 日本:
- 厚生労働省の「人を対象とする生命科学・医学系研究に関する倫理指針」などが基本となります。
- 申請書類の様式は各研究機関の倫理審査委員会によって異なりますが、指針に沿った内容が求められます。
- 研究の侵襲性や介入の有無、扱う情報の種類(匿名加工情報か否かなど)によって、審査の要件や手続きが詳細に規定されています。
- 他機関との共同研究の場合、分担研究機関もそれぞれ倫理審査を受けるか、あるいは代表機関の承認をもって行うかなど、機関間の取り決めが必要です。
- 米国:
- 主に連邦規則集(CFR)Title 45 Part 46(Common Rule)などが適用されます。
- IRBは研究機関内に設置され、申請書類の様式や審査プロセスは各機関のIRB規定に従います。
- 多施設共同研究の場合、一つのIRB(Central IRB or Single IRB; sIRB)が複数の施設をまとめて審査することが推奨されるなど、効率化の取り組みが進んでいます。sIRBを利用する場合、各施設はIRBの承認を得た上で、施設ごとの承認(Institutional Authorization)を得る必要があります。
- 欧州連合(EU):
- 加盟国ごとに国内法や倫理指針が異なりますが、EUの規則(例: 臨床試験規則No 536/2014)などが共通の枠組みを提供しています。
- 倫理審査は通常、国家レベルまたは地域レベルの倫理委員会によって行われます。
- 臨床試験に関するEU規則では、単一の申請ポータルを通じた申請、倫理委員会と当局による並行審査など、多国間共同研究を円滑化するための仕組みが導入されています。
- データ保護に関する一般データ保護規則(GDPR)は、生命科学研究における個人データの取り扱いにも大きな影響を与えており、倫理審査においても個人情報保護への十分な配慮が確認されます。
申請プロセスと審査期間
申請プロセスは概ね「申請書類作成・提出 → 委員会事務局による形式確認 → 倫理審査委員会による審査 → 承認または修正指示 → (修正・再提出) → 承認」という流れをたどります。
審査期間は、研究計画の内容(リスクの高さなど)、申請書類の完成度、委員会の開催頻度、委員会の混雑状況などによって大きく変動します。一般的には数週間から数ヶ月かかる場合があり、国際共同研究で複数の国の審査が必要な場合は、さらに時間を要することがあります。計画段階で十分なスケジュールを確保しておくことが重要です。
国際共同研究における倫理審査申請の留意点
国際共同研究において倫理審査申請を円滑に進めるためには、いくつかの重要な留意点があります。
1. 各国の規制・文化・言語の違いの理解
共同研究相手が所属する国の規制要件や倫理審査プロセスの詳細を事前に確認し、理解することが不可欠です。単に法規制を調べるだけでなく、倫理審査委員会の傾向や、研究参加者に対する文化的な配慮なども把握しておくと、より適切な申請書類の作成に繋がります。説明文書や同意書の翻訳・ローカライズは、単なる直訳ではなく、現地の人が理解しやすい表現を用いる必要があります。
2. 共同研究者との密な連携
各国の共同研究者と密に連携し、情報共有を行うことが非常に重要です。プロトコルの共通理解、説明文書・同意書の文言調整、各国の倫理審査の進捗状況の共有などを常に行い、足並みを揃えることが、手戻りを防ぎ、研究開始までの遅延を最小限に抑える鍵となります。
3. 多施設・多国間での審査の調整
前述の米国sIRBやEU規則のような仕組みがない場合でも、複数の倫理審査委員会での審査が必要となることがあります。この場合、各委員会の審査要件や審査期間の違いを把握し、どのように申請を調整するかを計画する必要があります。例えば、代表機関の倫理審査委員会が承認した内容を、他の共同研究機関の審査委員会が参照することを認めている場合もあります。
4. プロトコル変更時の対応
研究途中でプロトコルに変更が生じる場合、原則として再度倫理審査委員会の承認が必要です。国際共同研究では、関係する全ての国の倫理審査委員会に再申請が必要となることが多いため、変更の必要が生じた際には、迅速に関係者間で協議し、手続きを進める必要があります。
まとめ
生命科学分野の国際共同研究を推進する上で、倫理審査は研究の信頼性と倫理性を担保する重要なプロセスです。倫理審査の基本的な考え方は世界共通ですが、具体的な申請書類や手続きは国や地域によって異なります。日本、米国、欧州の比較から見られるように、各国の規制要件や手続きの違いを理解し、それに対応した準備を行うことが、国際共同研究を円滑に進めるために不可欠です。
国際共同研究に携わる若手研究者の皆様には、共同研究相手との密なコミュニケーションを図り、各国の倫理審査プロセスの詳細を早期に確認することをお勧めします。倫理審査は時に複雑で時間を要する手続きですが、研究参加者の保護と研究の信頼性確保のためには欠かせません。本サイトでは、今後も各国の具体的な規制・倫理情報を提供してまいりますので、ぜひご参照ください。倫理的な配慮を怠らず、実りある国際共同研究を推進してください。