国際共同研究における微生物資源(ABS):主要国の実施状況と比較
はじめに:微生物資源の国際利用とABSの重要性
生命科学分野、特に微生物学やバイオテクノロジーの研究において、世界各地に存在する多様な微生物資源は不可欠なものです。新たな酵素、遺伝子、生理活性物質などを発見する可能性を秘めた微生物資源は、国際共同研究を通じてアクセスされる機会が増えています。
しかし、これらの資源は無尽蔵ではなく、採取地の国・地域の生物多様性の一部を構成しています。そのため、資源へのアクセスやその利用から生じる利益の配分に関して、国際的なルールが定められています。これが「アクセスと利益配分(ABS:Access and Benefit-Sharing)」と呼ばれる考え方です。
ABSは、生物多様性条約(CBD)およびその補足議定書である名古屋議定書に基づいて推進されており、遺伝資源を提供する国・地域(提供国)が、その資源へのアクセスを認める際に、資源の利用から生じる利益(金銭的利益、非金銭的利益を含む)を公正かつ衡平に配分する取り決めを行うことを原則としています。
若手研究者の皆さんが国際共同研究で微生物資源を取り扱う際には、このABSに関する規制や倫理的側面に十分な注意を払う必要があります。本記事では、ABSの基本的な考え方と名古屋議定書の枠組み、そして主要国のABSに関する国内実施状況や、研究者が国際共同研究において留意すべき点について解説します。
ABSの基本概念と名古屋議定書
ABSの考え方は、1992年に採択された生物多様性条約(CBD)の3つの目的、すなわち「生物多様性の保全」「生物多様性の構成要素の持続可能な利用」「遺伝資源の利用から生じる利益の公正かつ衡平な配分」のうち、3番目の目的を達成するために生まれました。
特に、2014年に発効した生物多様性条約の名古屋議定書は、ABSに関する具体的なルールを定めています。名古屋議定書は、遺伝資源にアクセスしようとする利用者は、提供国の国内法令に基づき、事前の情報に基づく同意(PIC:Prior Informed Consent)を得る必要があり、また、遺伝資源の利用から生じる利益の配分について提供国との間で相互に合意した条件(MAT:Mutually Agreed Terms)を定める必要があるとしています。これらの手続きは、利用者が遺伝資源を提供する国・地域に入国する前、または資源にアクセスする前に完了していることが求められます。
名古屋議定書の対象となる「遺伝資源」には、植物、動物、微生物、菌類などが含まれ、その遺伝的な機能的単位を有するもの、または現実の若しくは潜在的な価値を有するものが該当します。微生物資源もこの対象に含まれるため、国内外で採取された微生物や、他の機関から提供された微生物などを研究で利用する場合、ABSの検討が必要となるケースがあります。
主要国のABSに関する国内実施状況と比較
名古屋議定書は国際的な枠組みですが、その具体的な実施方法は各締約国に委ねられています。このため、国によってABSに関する国内法や規制、手続きは異なり、国際共同研究を行う上で複雑さをもたらす要因となります。
1. 日本: 日本は名古屋議定書の締約国であり、「遺伝資源の取得の機会及びその利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分に関する指針」(ABS指針)を定めています。この指針は、提供国から遺伝資源を取得・利用する際の日本の研究者の遵守事項を定めたものです。具体的な手続きとしては、提供国の国内法に従ってPICとMATを得ること、日本国内での利用を開始する際に所管省庁に届出を行うことなどが求められます。海外の研究機関と共同で遺伝資源を利用する場合、提供国での手続きと日本の手続きの両方が関わってくる可能性があります。
2. 欧州連合(EU): EUも名古屋議定書の締約国であり、域内でのABS遵守を義務付ける規則を定めています。この規則は、EU域内の利用者が、提供国から遺伝資源を取得・利用する際に、提供国の国内法に従ってPICとMATを得たことを証明する「デューデリジェンス(相当な注意義務)」を果たすことを求めています。研究機関は、資源の由来や取得方法に関する情報を適切に保管し、要請に応じて当局に提出する必要があります。EU域内の研究機関と共同研究を行う場合、彼らが遵守すべき義務について理解しておくことが重要です。
3. 米国: 米国は生物多様性条約および名古屋議定書の非締約国です。このため、米国国内には名古屋議定書に基づく包括的なABS規制は存在しません。ただし、特定の連邦法(例:絶滅危惧種法)や、州レベルでの規制、または特定の研究資金提供機関のポリシーによって、遺伝資源の利用に関する制限や要件が課される場合があります。また、米国で取得した遺伝資源を、名古屋議定書締約国である国・地域に持ち込んで共同研究を行う場合、提供国側のABS規制が適用されることに注意が必要です。
4. その他: 遺伝資源提供国となり得る多くの国(特に開発途上国)は、名古屋議定書に基づき独自のABS関連法を整備しています。これらの国の規制は、資源の種類(微生物、植物など)、利用目的(研究、商業利用など)によって手続きや要件が異なることがよくあります。例えば、アクセス許可申請のための複雑な手続き、共同研究契約における利益配分に関する具体的な取り決めなどが求められる場合があります。
国際共同研究における研究者の留意点
国際共同研究で微生物資源を取り扱う若手研究者の皆さんは、以下の点に留意し、ABSコンプライアンスを徹底することが重要です。
- 事前の情報収集と計画: 研究計画の早い段階で、利用しようとする微生物資源の提供国がどこか、その国が名古屋議定書の締約国であるか、国内にどのようなABS規制があるかを調査してください。共同研究相手の研究者が現地の規制に詳しい場合もありますが、最終的な責任は研究者自身にあるため、主体的に情報を収集することが必要です。
- 提供国とのコミュニケーション: 共同研究相手を通じて、または直接、提供国の関係当局や研究機関と密にコミュニケーションを取り、必要な手続き(PICの取得、MATの締結など)について正確な情報を得てください。
- PICとMAT: 提供国の国内法に従い、正式な手続きを経てPICを取得し、MATを締結してください。MATには、研究目的、資源の利用範囲、共同研究の成果発表に関する取り決め、将来的な商業化の際の利益配分に関する条項などを具体的に含めることが一般的です。
- 記録の保持: 資源の取得に関する許可証、PICの証拠、MATの契約書など、ABS関連の文書は全て適切に保管してください。これらの記録は、将来的に研究成果を発表する際や、第三者から問い合わせがあった場合に、正当な手続きを経て資源を利用していることを証明するために不可欠です。
- 共同研究契約: 国際共同研究契約に、ABSに関する条項を含めることを推奨します。これにより、共同研究の全参加者がABSに関する責任を共有し、コンプライアンス違反のリスクを低減できます。資源の提供国、取得方法、利用範囲、利益配分の原則などを明確に記載することが重要です。
- 所属機関の規程確認: 所属する大学や研究機関には、国際共同研究や遺伝資源の利用に関する独自の規程やサポート体制がある場合があります。事前に確認し、必要に応じて倫理委員会や知的財産部などの専門部署に相談してください。
結論:複雑な規制への対応と倫理的責任
国際共同研究における微生物資源の利用は、学術的な発展や社会貢献に大きく寄与する可能性を秘めています。しかし同時に、ABSという複雑な国際的・国内的規制への対応が不可欠です。国によって異なる規制、手続きの煩雑さなどは、若手研究者にとって大きなハードルとなるかもしれません。
重要なのは、利用しようとする資源の背景にある権利や倫理的側面を理解し、誠実に対応することです。事前の入念な準備、提供国および共同研究相手との丁寧なコミュニケーション、そして必要な手続きの確実な実行は、研究を円滑に進めるだけでなく、提供国との信頼関係を構築し、長期的な国際共同研究の発展に繋がります。
研究活動は、単に科学的な問いに答えるだけでなく、関わる全ての関係者の権利と利益を尊重し、持続可能な方法で行われるべきです。ABSコンプライアンスは、この倫理的責任を果たすための重要な一歩と言えるでしょう。不明な点があれば、必ず専門家や所属機関の担当部署に相談し、適切な手続きを踏むようにしてください。