生命科学研究と名古屋議定書(ABS):国際共同研究における遺伝資源利用の規制と手続き
はじめに
生命科学研究は、世界各地の多様な生物から得られる遺伝資源に大きく依存しています。植物、動物、微生物など、様々な生物由来の遺伝資源には、医薬品やバイオテクノロジー製品の開発につながる未知の可能性が秘められています。国際共同研究においては、異なる国の遺伝資源を利用する機会も多くなります。
しかし、これらの遺伝資源の利用は、無制限に許されているわけではありません。遺伝資源の利用から生じる利益を、資源を提供した国と公正かつ衡平に配分することを目的とした国際的な枠組みが存在します。それが、生物多様性条約(CBD)およびその補足議定書である名古屋議定書(ABS)です。
本記事では、生命科学分野の国際共同研究に携わる若手研究者の皆様が、名古屋議定書(ABS)について最低限知っておくべきこと、特に遺伝資源の利用に関する規制と手続きについて解説します。海外の共同研究者とのコミュニケーションや研究計画の立案に役立てていただければ幸いです。
名古屋議定書(ABS)とは何か
名古屋議定書は、正式には「生物多様性条約の遺伝資源の取得の機会及びその利用から生じる利益の公正かつ衡平な配分に関する名古屋議定書」といい、2014年に発効しました。ABSは "Access and Benefit-Sharing" の略で、「遺伝資源へのアクセスと利益配分」を意味します。
この議定書の基本的な考え方は以下の3点です。
- 主権: 遺伝資源は、それが存在する国の主権下にあることを認める。
- 事前の同意(PIC): 遺伝資源を利用する者は、提供国から事前に同意(Prior Informed Consent: PIC)を得なければならない。
- 相互に合意する条件(MAT): 遺伝資源の利用条件や、利用から生じる利益の配分方法について、提供国と利用者との間で相互に合意する条件(Mutually Agreed Terms: MAT)を定める。
これらの原則に基づき、遺伝資源の持続可能な利用を促進しつつ、資源提供国がその利用から正当な利益を得られるようにすることを目指しています。
生命科学研究におけるABSの対象
生命科学研究において、どのような場合に名古屋議定書(ABS)の規制対象となるのでしょうか。主なポイントは以下の通りです。
- 対象となる「遺伝資源」: 生物由来の遺伝情報を含む素材全般を指します。具体的には、植物、動物、微生物(細菌、真菌、ウイルスなど)そのもの、またはそれらに由来する細胞、組織、ゲノムDNA/RNA、遺伝子、タンパク質などが含まれます。ただし、ヒトの遺伝資源はABSの対象外です。
- 対象となる「利用」: 遺伝資源に含まれる遺伝情報や生化学的な特性に関する研究開発活動を指します。例えば、
- 特定の遺伝子の機能解析
- 有用なタンパク質や代謝産物の探索
- ゲノム配列の解読と比較研究
- 新しい酵素や化合物のスクリーニング
- 育種や品種改良
- 医薬品、食品、化粧品、工業製品などの研究開発 基礎研究であっても、遺伝情報や生化学的特性の探索・研究開発に該当する場合は対象となり得ます。
つまり、海外の生物から分離したDNAやRNAを解析したり、微生物株が産生する物質の機能を探ったり、植物の特定形質に関わる遺伝子を調べたりするような研究活動は、ABSの対象となる可能性が高いです。
国際共同研究におけるABSの手続き
国際共同研究で海外の遺伝資源を利用する場合、ABSの手続きは複雑になることがあります。どの国のABSルールが適用されるかは、主に以下の要因で決まります。
- 遺伝資源の提供国: 遺伝資源が採取・収集された国のABS関連法令に従う必要があります。国によってABSに関する法制度の整備状況や手続きは大きく異なります。
- 遺伝資源の利用活動が行われる国: 遺伝資源が持ち込まれ、研究活動が行われる国のABS関連法令も関係してくる場合があります。
一般的な手続きの流れは以下のようになります。
- 提供国の国内法令の確認: 利用を検討している遺伝資源の提供国が、名古屋議定書を締約しており、かつ国内法制度が整備されているかを確認します。外務省や環境省、バイオテクノロジー関連の業界団体などが情報を提供している場合があります。
- 提供国の当局への連絡: 提供国のABS担当窓口に連絡し、利用目的(研究内容)を説明し、必要な手続き(PICの取得、MATの締結)について問い合わせます。
- 事前の同意(PIC)の取得: 遺伝資源の提供元(国の当局、研究機関、地域コミュニティなど)から、遺伝資源を利用することについての事前の同意を得ます。同意の範囲や条件を明確にしておくことが重要です。
- 相互に合意する条件(MAT)の締結: 遺伝資源の利用条件、そこから得られるデータや成果の取り扱い、商業化に至った場合の利益配分などについて、提供元との間で契約を結びます。研究段階では金銭的な利益配分は想定されないことが多いですが、将来的な商業化の可能性も考慮して条件を定める必要があります。
- 各国での報告・登録: PICやMATを取得した後、遺伝資源を持ち込む国(共同研究者が研究を行う国)の当局に、利用計画や取得したPIC/MATに関する情報を報告・登録する義務がある場合があります。日本国内で海外の遺伝資源を利用する場合も、環境省に利用届出を提出するなどの手続きが必要です。
国際共同研究の場合、共同研究者それぞれが所属する国での手続きが必要になることもあります。例えば、A国から提供された遺伝資源を、B国とC国の研究者が共同で利用する場合、提供国であるA国のABSルールに従う手続きが必要なだけでなく、B国とC国それぞれの国内法に基づく手続き(報告義務など)も求められる可能性があります。
国際共同研究における留意点
国際共同研究でABSに関連して特に注意すべき点は以下の通りです。
- 早期の情報共有: 共同研究計画の初期段階で、利用する遺伝資源がABSの対象となるか、どの国のルールが適用されるかなどを共同研究者間で十分に話し合い、共通理解を持つことが重要です。
- 共同研究契約におけるABS条項: 共同研究契約書には、利用する遺伝資源の種類、提供国、取得したPIC/MATの内容、データや成果の共有範囲、将来的な利益配分の考え方など、ABSに関する条項を必ず盛り込む必要があります。
- 各国の国内法令の確認: 提供国だけでなく、遺伝資源を持ち込む各国のABS関連法令(日本であれば「ABS指針」など)を確認し、必要な手続き(利用届出、情報提出など)を漏れなく行う必要があります。
- 第三者への提供: 共同研究で得られた遺伝資源やそれに由来する情報を、さらに別の研究者や機関に提供する場合、元のPIC/MATの範囲内であるかを確認し、必要であれば提供元の再同意を得る必要があります。
ABSの手続きは時間を要することが多いため、研究計画に十分な余裕を持って進めることが肝心です。不明な点があれば、所属機関の知財部や研究推進部、国のABS担当窓口などに相談することをお勧めします。
まとめ
名古屋議定書(ABS)は、生命科学研究における遺伝資源の利用において、資源提供国への敬意と公正な利益配分を求める国際的なルールです。特に国際共同研究では、複数の国の法令が関係し得るため、その理解と適切な手続きの実行が不可欠となります。
若手研究者の皆様には、研究活動で使用する海外由来の遺伝資源について、ABSの対象となるか常に意識し、必要なPICの取得やMATの締結、国内での報告義務などを遵守していただくようお願いいたします。これは、研究の倫理性を保ち、国際的な信頼関係を構築する上で非常に重要なステップです。
ABSに関する情報は、提供国の法制度の変更や国際的な議論の進展によって更新されることがあります。常に最新の情報を確認するよう心がけ、責任ある研究活動を遂行してください。